回想 — 火が戻った日

引退して二週間。 私は衰えたのではかった。
再び、火が灯ったのだ。

それは会議室でもなく、 教室でもなかった。

朝六時を少し過ぎたころ。
窓から風が入り、
身体がはっきりと告げてきた。

――まだ、生きている。

立ち上がり、背を伸ばす。
玄関先に目をやると、 あの古い陶器のたぬきがいた。
丸い腹。 風に揺れる、誇らしげな手提げ。

相変わらず、したり顔で、にやりと笑っている。 「ほらな。まだ終わっちゃいないだろ」 そう言わんばかりに。

杜仲茶を濃く淹れる。苦くて、澄んだ味。
SUPを担ぎ、
礁を越えて力強く漕ぐ。 リズムが、頭に残った靄をほどいていく。
汗がシャツを濡らし、 肌には塩が残る。
そのまま、海に飛び込んだ。

感覚に導かれてたどり着いた入り江。
岩の間を魚と泳ぎ、
裸足で浜に上がり、
濡れたまま、崖を登る。

風が肌を撫でる。
携帯は持たない。
音もない。

ただ、 もう一度「何かへ向かって進む感覚」を思い出した ひとりの男の鼓動だけがあった。

その後、鉄を持ち上げた。
美しく形づくるためではなく、
自分を取り戻すために。

肉を焼く。
簡素に
原始的に。

そして、笑った。
理由なんてない。
ただ、自分の身体に戻ってきた
その感覚がおかしくて。

これは欲情ではない。
若さでもない。

言い訳なしの、生命力だ。

火は消えていなかった。
ただ、待っていただけ。
義務や、カフェインや、丁寧すぎる自己編集、
「答える側」あり続けた年月の下で。

私は六十二歳。
そして、火は戻った。

若さを取り戻そうとしているのではない。
今を生きている。
一日ずつ、
入り江ごとに。

遅すぎるのでは、と迷う人へ。
そんなことはない。

境界線は、まだそこにある。
境界線は、まだそこにある。
ただ、もう一度そこまで行けばいい。

私は今、日本の海辺の田舎に暮らしている。
リトリートを開き、 鴉に見られながら鍛え、
苦いお茶を飲み、
ときどき、あの生意気なたぬきと話をする。

ここは青葉庵。
癒しの場所ではない。

思い出す場所だ。

もし、心のどこかで火がかすかにでも動いたなら――

連絡してもいい。
しなくてもいい。

ただ外に出て、
重たいものを持ちあげ、
海に飛び込め。

そして、 身体に思い出させてほしい。
あなたが、今もまだ誰であるのかを。

持ち上げて、漕いで、狸に笑ったその間で――
私は思い出した。
これが「まるごと生きている」感覚だと。

“Somewhere between lifting, paddling, and laughing at the tanuki — I remembered: this is what wholeness feels like.”

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