ただの私見だけど、これだけは言わせてほしい。 海の男は、本当に違う。

カナダに戻っている間、青葉庵の鍵は隣に住むミチカに預けていた。今では彼女は私の共同管理人みたいな存在だ。カナダさんも、この古民家を一緒に手入れしてくれて、もう一年以上の付き合いだ。

7月2日の便を予約していたが、ブライアンから「七年祭りの準備が盛り上がってる」と聞いて、予定を前倒しして帰ってきた。 若狭湾の住人を名乗るなら、こういう時こそ顔を出さないと。

着いた日は、神社の境内で一番小さな女の子たちが、笛の音に合わせて小さく跳ねながら踊っていた。 ミチカと、路地裏でヤクルトを配りながらドミノの名人でもある小林さんが、「こっちだ」と手招きして、裏通りを抜けて本番の場所へ — 太鼓だ。

これは聞いてほしい。 お上品な祭囃子じゃない。 頭を空っぽにしてくれる雷鳴だ。 次々と現れるのは、船のロープのような腕を持つ男たち。 寺の鐘みたいに腹を揺らす大太鼓を、容赦なく叩き続ける。 鼓動が狂って、汗の味と鉄の匂いが混ざってくる。 予定なんか忘れる。自分の名前すらどうでもよくなる。

この太鼓打ちは、音楽学校で習ったわけじゃない。 彼らは海の男であり山の男、火の男。 脂ののった魚、焼けつく太陽、荒ぶる海に鍛えられた男たち。 荒々しいだけじゃない。荒々しさの奥に、言葉なき規律が宿っている。 都会の男が地下鉄やデスクやラテと引き換えに失ったものが、ここにはちゃんと残っている。

やがて、戦士たちが現れる。 化粧に騙されるな。赤いアイライン、結い上げた髪 — 一見柔らかそうに見えて、ゆっくりと獣になる。 槍も刀も、雨傘ですら武器になる。ここに春の歌などない。。 何百年も磨かれた殺しの型。掛け声は鋭く、道が震えるのをたしかに感じた。

あっという間に終わりが来る。汗が引く頃女たちが駆け寄り、そうめんとビール、甘酸っぱい漬物を男たちに運ぶ。次の一戦への糧だ。

もし許されるなら、その場でムース(北米の巨大なシカ)を狩って生の心臓を喰らっていただろう。——それくらい、血が騒いだ。 たぶんそれは、初めて映画『ロッキー』を観たときにこみ上げた、あの衝動に似てるのかもしれない。 胸が熱くなり、目がギラついて、階段を駆け上がったり、何か高貴なものを殴りたくなるあの感じだ。

この男たちが証だ。 本物の「兄弟(ブラザーフッド)」、男の絆はまだ死んでいない。 武士の魂、芸道の律、肉体の刃 — 全てここに、この漁師たちと神社の太鼓打ちの中に、生きている。

去り際、目の置くにダイサンの唸り声が響いた気がした。

「スクリーンを置け、若造ども。

何が大事かを打ち直せ。

もう一度肩を並べて立て。

こういう男になれ。 男になれ。——彼らのように。」

俳句

海の鼓

男の汗と声

七年祭

Sea drums —

men’s sweat and voices,

seven-year festival.

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