猫と海
甘き豆餅
夢の縁
Cat and sea —
sweet bean rice cake,
a bond dream-woven.
海に呼ばれたら、素直に応じる。 誰にも邪魔されず、ゆっくり、何も背負わずに。 古びた海の城のように突き出た、ギザギザ岩の島ー 遥かに広がる海原と、澄みきったえびす浜の浅瀬が出会う場所に立つ、静かな守り手のもとへ。
そこでは、潮たちがすべてを覚えている。 かつて沖で交わされた戦い、舞鶴の港に帰ってきた日本兵、そして帰らなかった漁師たちのことも。 私の悩みも覚えている—— ただ、それをきれいに流してしまうまでの間だけ。
それは五月、高浜に帰ってきたばかりの頃。 このときセンベイはいなかった。でも、別の何かが呼んでいた。
だから聞く。朝4時に起床する。 東向きの部屋に朝日が忍び込み、目覚ましの代わりに私を起こしてくれる。 大山の低い声がそっと響く、「起きろ、馬鹿者。理由は聞くな。」
だから起きる。 伸びをして、広い和室に座る。窓を全開にすると、松の根元の苔と石の手水鉢には朝露が光る。
そして歩く。杖を手に、巡礼者のように早足で。 丘の上の神社へと続く106の石段を登り、 小浜の山並みの向こうから昇る朝日に一礼。 そして、今日に——ただ今日というこの一日に、感謝を捧げる。
向こう側の坂を下り、名波江(なばえ)浜の縁を歩く。 今もなお、ひとりのサーファーがサーフボードの上にあぐらをかき、 これから乗り、記憶に残すことになる“物語”、その一瞬を静かに待っている。 寡黙に、焦らずーーー塩気と想いが混じり、ただよう。
岬の先を通り過ぎる。岩だらけで、ごつごつとした道。 足の親指ほどの先史時代のアンモナイトが、点々と小道に顔をのぞかせている。 私のことなど気にしないふりをして、足元からそっと離れていく。 まるで、私がただ通りすぎる波のひとつにすぎないかのように。
その先には、古びたコンクリートの防波堤が、冬の嵐をじっと見張っている。 ひとつだけ浮かぶ船がある。鎖につながれ、船体にはフジツボと、幾つもの秘密がこびりついている。 その船と私は、いつか語り合うだろう――でもそれは今日ではない。
そして――猫がいた。 センベイではない。 ひとまわり大きくて、毛並みはふわふわと乱れ、握りたてのおはぎにまぶしたきな粉のようなあたたかい色をしている。 まるで夜明け前からずっとそこで待っていたかのように座っていた。 一歩近づくと、彼は一度ゆっくりとまばたきをして、しっぽをきゅっと巻き、 潮のようにゆったりと、ひとつの詩を私の頭の中に落としていった。
「俺はセンベイじゃないよ。
でも、あいつから君のことは聞いている。
あの自慢の煎餅、どこにあるのさ?ほんと、変わったやつだね。」
私は笑い、しゃがみ、目を合わせる。 「センベイは、俺の ’せんべい猫’ だ。お前は、つきたての餅にまぶしたきな粉みたいだな。 ’おはぎ’ にしよう。」
おはぎは動じない。しっぽがひと振り。名前はーー承認された。 彼は私を見送る。その姿は、野良を装う僧侶のようだった。
浜の片隅にある恵比寿像の前、澄んだ海水が砂をやさしくなでる場所に立つ。 恵比寿は何も言わず、ふくよかな漁師のような笑みをたたえているーーーー それでも、なぜか聞こえた気がした。 「今だよ。」
Tシャツと短パンを脱ぎ、嫁に「みっともない」と笑われる下着姿で、真っ青な海に飛び込む。 冷たくて、新鮮で、澄みきっている。
沖まで泳ぎ、仰向けになって浮かぶ。 昔から男の心のざわめきを鎮める術(すべ)を知っている海に浄められる。 ひとりで——でも、ひとりじゃない。 頭上では鳥たちがうなずき、足元では小魚がまとわりついて渦を巻きながらつぶやく。 「おかえりなさい」
裸足で家へー青葉庵へと戻る。肌に乾いた潮を残したまま。 外でホースの水を浴びながら、ふと笑うーー まったく、同じ阿呆だ。半裸で、野良犬みたいな顔をして。
そして今日、コーヒーの代わりにふと思う。「いや、今日にふさわしいのはお茶だ。」
“No. Today calls for tea.”
お茶とおはぎ。
思い浮かぶのは、あの駄菓子屋。
田んぼをさまよっていたときに偶然見つけた三ツ松にある小さなお店。
不思議だった。どうして朝早く、6時から店を開けるのか。
今ならわかる。
また一つ、青葉の秘密を、猫のおはぎと海が教えてくれた。




