アシャと歩く物語の道——
霧と森と、あたたかな餡の甘さのなかで。
この散歩は、名の通り六つの面をもっている。
六つのやわらかな角、六つの場所の味。
それは土地と物語が折り重なった輪であり、 六方焼のように、見た目は素朴で、内には静かな豊かさを宿している。
今日、またその道を歩いた。 今回は、青葉庵に五日間滞在しているアシャと一緒に。 彼女は、静かな観察者であり、地図を描く人。 ネパールと日本のあいだに生まれ、 この一年、世界を水のように渡ってきた。 コスタリカではコーヒー農園でボランティアをし、 デンマークではサステナブルデザインを学び、 京都では、風に揺れる葉のように町を歩いたという。 彼女の歩みは、この道にぴたりと合っていた。 おだやかで、気づきに満ち、ひらかれていた。
最初の曲がり角を過ぎたあたりで、 ひとりの大工が見えた。 木の板の前に腰をかけ、帽子の下から、 静かな目だけがこちらをのぞいている。 ——戸づくりの人だ。 彼は顔を上げ、少し間をおいて、ぽつりと言った。
「トッドさん……いい奥さんだなあ。」
Todd-san… what a beautiful young wife you have…
思わず笑った。アシャはぱちりと瞬きをした。 それから少しあと——秋祭りのとき。 私は笑いながら、彼に伝えた。 「彼女は妻じゃないんですよ。学生で、旅人で、森の道を静かに歩く人です」と。 彼はようじをくわえたまま、にっと笑った。
その瞬間が、私たちの輪のはじまりだった。
六つの道の、最初の一歩へ。
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① ドアメイカーの上り坂
歩き出す場所、そして何かが開く場所。
この最初の道は、文字どおりの“はじまり”であり、 同時に、心が少しずつひらいていくような場所でもある。 細い路地をゆるやかにのぼると、 時間が少し濃くなるのがわかる。 家々はまるで古い着物のように、 木の肌をまとい、 杉の板や彫られた庇(ひさし)、 風にかすかに鳴る蝶番がそのまま物語を語っている。
ここは、あの戸づくりの人が暮らした土地だ。 彼やその仲間たちは、寺や茶室の扉をつくり、 この町の“かたち”を整えてきた。 この道を歩いていると、 ただの道というより、 ひとつの“調べ”のなかに入っていくような気がする。
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② 中寺の白馬
海の上に、白い馬が立っていた場所。
寺は、入り江の上に静かに建っている。 長い航海を終えた老船乗りのように、 海を見守るようにして。 この場所には、こんな話が伝わっている。
――むかし、漁師たちが深い霧のなかで沖に取り残された。
方角も見えず、水平線も消え、
ただ、白い世界に包まれていた。
そのとき、ひとりがふと顔を上げた。
そこに見えたのだ。
空を背に、光をまとい、
中山寺の丘に立つ白い馬の姿が。
漁師たちはその方向へ舵を切った。
霧がゆっくりと割れ、彼らは無事に帰り着いた。
アシャはここで立ち止まり、スケッチブックを半分だけ開いたまま、海を見つめていた。 霧が海面から立ちのぼっていく。彼女は何も言わなかった。けれど——もしかしたら、あの白い輪郭を見たのかもしれない。
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③ いのししの道
恐れが道を細くする場所。
ここは、野の気配が濃い。 “道”というより、“そのあたり”としか言えないような、あいまいな場所。
むかし、ここを一人の修行僧が通りかかった。そのとき、いのししが突然、茂みから飛び出した。驚いた僧は思わず逃げ、湧き水でぬれた崖を滑り落ちた。途中で根っこをつかみ、なんとかぶら下がった。
上には——いのしし。
下にも——もう一頭。
進むことも、戻ることもできない。
そのときだった。苔のあいだから、小さな赤い光が見えた。ひとつだけ、完璧ないちごが、そこに実っていた。
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④ 森の道(下がり)
下るほどに、静けさが満ちていく場所。
竹と影が折り重なる森のなか。道はしだいにやわらぎ、ゆるやかな傾斜が、人の心を静かに低くしていく。私たちは、ほとんど言葉を交わさずに歩いた。苔と落ち葉が、足音をそっと包みこむ。
この場所で、僧は決めたのだ。
恐れを手放し、
いちごを摘み、
口にした。
みずみずしく、やさしい甘さ。 “いま”という味。
その瞬間、過去も未来もほどけて、
ただ“ここに在る”ということだけが残った。
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⑤ 六方焼 (Roppoyaki)
甘さが、静かに戻ってくる場所。
店は低く、控えめに建っている。名を大次郎。知る人ぞ知る、朝の店だ。
おはぎが、ずいぶん前に教えてくれた。「六時に開くよ。あたたかいうちに行くといい。」
その言葉のとおりに行ってみた。——そして、行ってよかった。
六方焼は、焼きたての皮に餡を包んだ、六つの面をもつ小さな菓子。ふんわりとして、どこか素朴で、手のひらにやさしい重みがある。
アシャはそれをしばらく両手にのせたまま、ゆっくりと一口かじった。
「いちごみたい。」
そう言って、少し間をおいて微笑んだ。
「でも、ちゃんとレシピがある。」
私たちは笑った。でも——たぶん、彼女の言うとおりだった。
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⑥ おかえり、あるいは川の道
帰ることも、選ぶこと。
最後の道は、ふたつに分かれている。
ひとつは、川沿いを静かに曲がりながら進む道。ゆるやかで、音の少ない、水の道。
もうひとつは、青葉庵へと戻る道。外では、石段の上に脱いだ草履が陽にあたって乾き、中では、あたたかいお茶が湯気を立てて待っている——そんな場所へとつづく道。
私たちは「おかえり」の道を選んだ。——“おかえりなさい”という名の道。
けれど、水の道は、いつでもそこにある。流れつづけ、歩く者を、静かに待っている。
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エピローグ
青葉庵に戻り、靴を脱いで、ひんやりとした木の床に足をのせた。
アシャは一度だけ振り返り、木々の方を見つめた。
白い馬は——山そのものだった。
いちごは——あの瞬間そのものだった。
六方焼は——その甘さ、その“味わい”だった。
アシャは微笑んだ。
散歩は終わった。けれど、何かが――静かに、そこに残った。